色彩は「もう一つの心の言葉」です。 色は私たちの感情や記憶と深くむすびつきながら日々を豊かに彩り、心身に様々な作用を及ぼしています。色を使った表現を通して心を元気にしたり自分らしさを育てたりするアートセラピーを社会に活かしていきたいと思っています。

三陸方面スタディーツアー

12日夜より、三泊の東北三陸被災地スタディーツアーに参加しました。
NPO法人日本自費出版へネットワークの山崎さん(60代男性)のコーディネートのもと、メンバーは鍼灸師のめぐみさん、会社員のゆうこさん、そして私の4人です。

13日朝、岩手県一関よりレンタカーで宮城県気仙沼市へ。
現地の小野寺さん(60代男性、スーパー経営、自然防潮林復活運動や仮設住宅に絵を飾る活動など、幅広く取り組んでいる方)に案内していただき、地震火災消失地区や沿岸部をまわり、夜も岩井崎の民宿でご一緒していろいろな写真やビデオを見せていただきました。
震災後いち早くスーパーを復活させただけでなく、さまざまな問題に取り組んでいる小野寺さんは、とにかくアクティブ、エネルギッシュ、熱意の人。そしてユーモアも。とにかく時間の許すかぎりたくさんのお話を聴きました。

*気仙沼市・復興商店街・岩井崎向洋高校跡・地福寺・杉の下集落慰霊碑・龍の松・巨大防潮堤問題・岩井崎 民宿沖見屋*


安波山から気仙沼市をのぞむ


漁港を囲むようにして7mの防潮堤の工事がすすむ


わかめ漁、ゆでたてのメカブをたべさせてもらった


高さ10m底辺100mの巨大防潮堤の工事。住民合意は?海と陸のつながりは?


写真左が小野寺さん


14日は岩手県大船渡市へ移動。
越喜来湾をのぞむ越喜来(おきらい)地区の杉下仮設を訪問し、こちらに在住の及川忠之丞さん(90歳?)にお会いしました。
及川さんは元国語教師で、3度の津波を経験し、それを語り継ぐべく「おおふなと昔がたり」などの編纂にたずさわっておられます。
次男のお嫁さんという亜希子さんが、おいしいお煮しめを用意して歓迎してくださり、ここでも復興へのさまざまな課題や皆さんの前向きな想いを聴きながら、その明るさや強さに逆に元気付けられました。帰り際握手してくださった及川忠之丞さんのがっしりした大きな手が忘れられません。
 
*越喜来・震災資料館「潮目」・三陸南リアス線*


越喜来の資料館「潮目」

午後は少し南にもどって大船渡湾をのぞむ赤崎地区へ。
ここでは町工場を営む藤原さん(60代男性)と落ちあい、案内していただきました。藤原さんは、コンクリート造りで流されずにのこった自宅を保存し開放しています。秋田出身という藤原さんはどこかひょうひょうとしていながら、信念ある実践家です。現在は仮設にお住まいですが、そこで奥様の幸子さんもいっしょに、上から目線でない復興への想いを語ってくださいました。
「“絆”は最初は良かったんだ。今現実(個々の差、復興の現状など)が見えてきて、その上でどう前向きにやって行くのかが課題」という言葉は、私たち自身もこの国で何をどう選んでいくのかということと繋がっていると思いました。

*大船渡湾・赤崎地区・陸前高田・奇跡の一本松・陸前高田未来商店街*



藤原さん自宅、3階まで津波が達した


自宅三階を案内してくださる藤原さん


名勝 碁石海岸 奥に見えるのが大船渡湾




15日は陸前高田ですすむ、広大な土地かさ上げ工事の様子や、奇跡の一本松などの震災遺構を訪ね、最後は、未来商店街の鶴亀鮨さんでランチを食べて一関へもどりました。


陸前高田 写真右はかさ上げ工事のための土を運ぶ巨大ベルトコンベアー



         
        未来商店街の鶴亀鮨のご主人と  (びっくりの記念写真サービス)


今回旅のプランを立ててくれた山崎さん「出版・印刷」という仕事の分野をきっかけに、何度も被災地に足を運び、現地との関係を作ってきた人です。
山崎さん自身もエネルギッシュな人だけれど、今回お会いした人たちはみんな魅力的で力強く、話を聴いているだけでほんとうに楽しかった。
とにかく今回は「勉強」に行くという気持でいたので、出かける前は旅の楽しさというのはあまり想像していなかったのです。

実際の体験や暮らしの中には、語れないこと、語ることが難しいことも多くあると思います。

けれども被災地には話したい伝えたいことが山ほどあって、外から来て聴きたいという思いがあれば、これはやっぱり続けていく意味があります。

今回気仙沼、陸前高田、大船渡、越喜来という4つの湾に面する入り江とそこにそそぐをみました。、
その自然の威力というものをあらためて確認し、その入り江が東北沿岸にそれこそ数え切れないほどあることを考ると、あらためて被害の甚大さがわかります。

2012年に訪れた時にくらべ、コンクリート工事がどんどん進み、道路は整備され瓦礫もすっかり片付き、地域の様相はずいぶん変わってきています。
何ケ所か取り壊されずに残っている「震災遺構」に関しては、被災した人たちの複雑な感情があることはもちろん承知のうえで、出来るだけ多くを残してほしいと思いました。

広島もあの原爆ドームがあるからこそ、事実と歴史を感じることができるのです。

これから被災地を訪ねる人たちがその場に立ったとき、整備された町や慰霊碑だけではなかなか想いをめぐらせることはできないのではないでしょうか。そのままの形で残される「遺構」というのは見る者に多くのことを語る役割があると思います。

「また来てね」「こんな防潮堤、考えなおす日がくるから」という小野寺さん。
「また来てね」「今度は牡蠣くわしてやっから」といった藤原さん。

ほんとうにまたぜひ行きたいと思います。


  


  • Posted by turu at 15:27Comments(2)出かけました